ラピタ=ポリネシアの太平洋植民(紀元前1500年〜紀元後1300年頃)
紀元前1500年頃のビスマルク諸島の橋頭堡から、櫛目印文土器の作り手とその後継であるオーストロネシア語族の人々は、地球上で最大の空白の生息地を埋めるための航海カヌーと航法技術を築き上げた。生まれた波利尼西亞世界は地球表面の四分の一に及ぶ。代価は鳥類、森林、そして哺乳類の捕食者を経ずに進化してきた飛べない陸上動物相において支払われた。
紀元前1500年頃、ニューギニアの北方沖、ビスマルク諸島においてラピタ文化複合体が立ち現れた——特徴的な櫛目印文土器、外洋四千キロメートルを越えうる双胴ならびにアウトリガー型のカヌー、そしてタロイモ、パンノキ、バナナ、ブタ、ニワトリ、イヌという、遠隔の島々の自給的植民を可能にする可搬型の農業セットである。続く二十八世紀のあいだに、彼らのオーストロネシア語族の子孫はバヌアツ、フィジー、トンガ、サモア、マルケサス諸島、ソシエテ諸島、ハワイ、ラパ・ヌイ、そしてついに紀元1280年頃のアオテアロアへと種を蒔き、地球表面の四分の一を、ヨーロッパの航海者がその後さらに五世紀のあいだ並ぶことのない器具によらない天測航法によって植民した。伝播そのものは贈与の所作においては概ね平和裏のものであった。代価は飛べない鳥類において支払われた——ハワイ固有種およそ五十種の絶滅、紀元後百五十年でアオテアロアのモア類が狩り尽くされ、太平洋の各島の鳥類相は移入されたネズミと直接の人為的圧力によって書き換えられた。
贈与以前——横断不能の太平洋
紀元前1500年、太平洋には地図上の異常があった。フィリピンからニューギニア、ソロモン諸島へとほぼ南北に走る線の西側では、島々は人が住んでいた——パプア諸語を話す人々がニューギニアにおよそ五万年にわたって定着し、その直東の諸島ではより小規模で断続的な居住が見られた。その線の東側、すなわちハワイの火山峰からトゥアモトゥの環礁、アオテアロアの温帯林に至るまで、一万キロメートルを超える外洋とその間に散在する数千の居住可能な島々には、人間は一人もいなかった。地球で最大の空白の生息地が空白だったのは、それを横切るのに必要な技術がいまだ存在しなかったからである。1
居住の縁にあった近オセアニア
紀元前2千年紀末に人類の到達可能域の縁にあった群島はビスマルク諸島であった——ニューブリテン、ニューアイルランド、アドミラルティ諸島を含む、ニューギニアの東に伸びる大型火山島の連鎖である。そこには数万年にわたって人が住み、ニューブリテンのタラセア産黒曜石は、地球上でもっともよく実証された深い時間の交易ルートのひとつに沿って、二千キロメートル以上にわたり運ばれていた。しかしそこに住んでいた人々は、深く分化したパプア諸語族の言語を話す小さな共同体の園耕者であり、短い島嶼間の渡航には十分な水上輸送手段は持っていたものの、ソロモン諸島——東に数百キロメートル——への到達、ましてやバヌアツ、フィジー、それを越えた虚空への跳躍に必要な外洋航行のための船は持っていなかった。2
考古学者が引く地図上の区別——人類が数万年にわたって住んでいた近オセアニアと、空白の東である遠オセアニアとの区別——は近代的な投影ではない。それはラピタ統合以前に存在した水上輸送手段が実際に到達しえた距離に対応している。ソロモン諸島はほぼ全長にわたって隣の島から見える;ニューブリテンからマヌス経由でアドミラルティ諸島へ続く連鎖もまた同様である。南東ソロモンの東側で、島と島との距離は広がる。最初の大跳躍——リーフ=サンタ・クルス諸島から北バヌアツへ——は中継地のないおよそ四百キロメートルの外洋である。この距離の先で陸を見出せると確信できる船を持たぬ者は、誰もそれを試みなかった。
いまだそこになかったもの
紀元前1500年の時点で太平洋のどこにもまだ存在しなかったもの。数週間にわたる持続的航海に堪える外洋型の双胴カヌー。単胴船に、はるかに大型の船舶に匹敵する耐航性を与えるアウトリガー安定装置。農作物と家畜を一括の輸送荷として外洋を越えて系統的に運ぶ能力。千キロメートルの航海のはてに小さな島を見いだしうる、器具によらない天測航法。櫛歯状の道具で施文された土器——ラピタの同一性を示すもっとも診断的な物質的痕跡であり、五世紀のうちにはビスマルクからトンガに至るまでの家庭の貝塚に堆積することになる土器。3
したがって太平洋の東半分は空白であった——ニューカレドニア、バヌアツ、フィジー、トンガ、サモア、クック諸島、ソシエテ諸島、マルケサス、トゥアモトゥ、ハワイ、ラパ・ヌイ、アオテアロア。そのいずれにも、いまだ人は足を踏み入れていなかった。森林、サンゴ礁、火山峰、そして大型の鳥類群——アオテアロアのモア、ハワイの巨大な飛べないクイナと雁ほどの大きさのカモ、赤道太平洋中央部のウミツバメの巨大な営巣地——は、たまの大型コウモリよりも大きい哺乳類の捕食者なしに進化してきた。人類の到達がついに訪れたとき、それはこれらの生態系のいずれもが更新世以降経験したことのないもっとも急速な生物相の再編をもたらすことになる。
ラピタ以前のビスマルク
紀元前1500年頃、オーストロネシアの新参者がビスマルク諸島で出会い部分的に吸収することになる共同体は、技術的に原始的だったわけではない。三万年にわたってサゴを作り、堅果や塊茎を採集し、ブタを扱い、黒曜石を交換していた。少なくとも九千年にわたって園耕していた——ニューギニア高地のヤム=タロ複合体は世界における植物の独立栽培化中心地のひとつである。彼らが欠いていたのは、目視できる島嶼連鎖を越えて集団を運ぶことのできるカヌー技術であった。オーストロネシアの新参者がその技術を携えて到来したとき、続く文化的統合はパプア基層の置換ではなく、雑種であった——両系統からの言語的・物質的要素が、考古学者が今日ラピタと呼ぶ複合体へと再構成されたのである。3
伝播——土器、カヌー、航法
台湾からのオーストロネシア拡散
ラピタ複合体は、ビスマルク諸島の現地パプア基層のみから生まれたのではなかった。それは、紀元前3千年頃に台湾島と隣接する華南海岸で開始され、千五百年にわたってフィリピン、東インドネシア、そして西太平洋へと南下した人口移動の最東端の縁に立ち現れた。4
この移動の担い手はオーストロネシア語族の言語を話していた——その子孫言語は、今日では西のマダガスカルから東のラパ・ヌイにまで広がっており、地球上で非インド・ヨーロッパ語族としては最大の地理的広がりを誇る。オーストロネシア拡散は、考古学において最も厳密に記録された先史時代の人口移動のひとつである。言語的再構成(祖オーストロネシア語と祖マラヨ・ポリネシア語の祖形は、アンドリュー・ポーリー、ロバート・ブラスト、マルコム・ロスらによって高い確度で復元されている)、考古学的継起(赤色化粧土土器が台湾からフィリピン、東インドネシアを南下する分布)、そして古代DNA——いずれもひとつの図に収束する。すなわち、台湾=フィリピン地域に起源をもつ集団が農業的生計手段とオーストロネシア語をもたらし、進むにつれてさまざまな度合いでパプア諸語の集団と混淆していった、という像である。5
2016年のスコグルンドらによる、バヌアツのラピタ期三例とトンガの一例の古代ゲノム解析は、この像をいっそう鮮明にした。ラピタ期の個体はほぼ100%の東アジア系祖先を有し、パプア系の混血はほとんど認められなかった——すなわち、バヌアツとトンガのラピタ建設集団はパプア諸語の隣人をいまだ吸収しておらず、現在この地域の集団に見られるパプア=東アジア混合の祖先性は、ラピタ拡散ののちの混淆に起因することを意味する。それより東側のポリネシア集団は、東アジア系祖先優位の最初の波の子孫であり、西ポリネシアの故郷で漉されたパプア系の限定的な混血を負っている。5
紀元前1500年頃、この移動はビスマルク諸島に到達した。そこで——一時のあいだ——歩みを止め、ラピタを生み出すあの文化的統合を遂げた。
ラピタの統合
ラピタ文化複合体の名は、ニューカレドニアのグランド・テール島、フエ半島の遺跡に由来し、そこで1952年、ニュージーランドのエドワード・ギフォードとアメリカのリチャード・シュトラーが基礎的発掘を行った。その遺跡の診断的出土品——精緻な幾何学文様を、櫛歯状の道具で連続帯状に器の肩と口縁部に押し付けて施した、櫛目印文の土器——は、以来、ビスマルク諸島からソロモン、バヌアツ、ニューカレドニア、フィジー、トンガ、サモアへと走る弧の上に分布する二百以上の遺跡から回収されている。1 クリストフ・サンドの『ラピタ期のニューカレドニア』(1999年)は、南ラピタ州のもっとも広範な仏語による綜合であり、特にニューカレドニアの編年を記録している——櫛目印文を伴うもっとも古い層位は紀元前1100年に位置し、地域的な文化的彫琢が、続く諸世紀のうちに西ポリネシアの編年から分岐していくことになる。6

土器は診断である——ラピタ遺跡とはラピタ土器を伴う遺跡である——が、その土器はより大きな文化的セットの一要素である。ラピタの諸共同体は木工のための磨製石斧、貝の装身具(指輪、ビーズ、胸飾りに加工されたコヌス貝とトロカ貝)、装飾を凝らした耳飾、そして化学分析によって特定の火山に由来を遡れる黒曜石製の道具——その大部分はニューブリテンのタラセアの原産地から、二千キロメートル東の諸遺跡にまで分配されている——を産出していた。彼らは浅いラグーンの上の杭上家屋の村落、あるいは隆起した海岸段丘上に居住した。死者を埋葬し、ときに陶棺に納め、ときに頭蓋を分離して別の儀礼的扱いに付した。7
彼らはほぼ確実に身体に入墨を施していた。土器の櫛目印文の技法は、皮膚への入墨の銘刻的類比として読むのがもっとも蓋然的であり、同じ歯のついた道具が二つの媒体に応用されている。三千年後、クックの軍医がタヒチとマルケサスでポリネシアの首長たちの精緻な身体の入墨を記録したとき、彼らは西ポリネシアの故郷を通じて連続したラピタ期の慣行の民族誌的子孫を記録していたのである。7
カヌー
その後の展開にとってもっとも重要だったラピタ技術の単一の構成要素は、カヌーであった。
ラピタ拡散の考古学的痕跡は土器であるが、その土器の分布——地球で最大の水域の上、何百、何千キロメートルもの外洋によって隔てられた遺跡同士の間——それ自体が、持続的航海に堪える船型が存在していたことの証拠である。ラピタ期のカヌーの実例は残っていない。熱帯の堆積では木材は保存されないからである。しかし間接的証拠は実に大きい。明白に均一な土器伝統が数世紀のうちに数千キロメートルに広がる速やかな伝播、遠く離れた共同体を結ぶ黒曜石交換網の維持、そして歴史時代のポリネシア航海カヌーの比較民族誌——これらすべてがひとつの結論に収束する。すなわちラピタは、陸地を見ない数週間の航海に堪える外洋型の双胴ならびにアウトリガー・カヌーを建造していたのである。8
歴史時代のポリネシア航海の基本となった船型——同程度の長さの二本の平行な船体を、帆と乗組員を支える結合甲板に縛り付けたもの——は、狭い意味でのラピタの発明ではない。基本構造はオーストロネシア語族のより深い起源、台湾=フィリピンの海洋的継起にその先駆を持つ。ラピタが完成させたのは統合であった。速度と耐航性の双方に最適化された船体形状、シナピやヤシの繊維で縫合した板敷構造により、船体が荒海で破断するのではなく撓むことを可能にした構造、より風上に切れ込むことのできるラテン式の三角帆(蟹爪帆)、そして数週間に及ぶ航海のための糧食補給体制。紀元前1000年頃には、ラピタ系の集団は、ヨーロッパの航海者が外洋でいかなる距離においても並ぶには、それから少なくとも二千五百年待たねばならない水上輸送手段を運用していた。
2014年のPNAS誌に発表された、ニュージーランドの湿地から回収された14世紀のポリネシア航海カヌーの船体板(アナウェカ・カヌー)の分析は、縫合板構造の建造技法と、ポリネシア拡散全域に通じる船体形状の使用の双方を確認した。その板は長さ6.08メートルで、他の板に取り付けるための耳と縛着穴が備わり、紀元1400年頃に位置づけられた。これは現存する最古の東ポリネシア航海カヌーの一片であり、ラピタ系の造船伝統が二千五百年と一万キロメートルの拡散を通じてその連続性を保ったことを裏付けている。9
航法
もうひとつの本質的な技術は、器具によらない天測航法であった。20世紀まで生き延びた歴史時代のポリネシア航海者たち——そして近代までその技法を途切れなく保ったわずかなミクロネシアの大航海者たち、そのうち最後の偉大な師がカロリン諸島サタワル島のマウ・ピアイルッグであった——が用いていたのは、固有名で呼ばれる出没位置を覚え込んだ「星の羅針盤」を基礎とし、これに波形、雲形、陸を求める鳥の飛翔軌跡、水の色と輝度の読みを組み合わせる体系であった。10
体系は航海者の眼と訓練された記憶以外の器具を要さない。所定の針路は、既知の出没位置にある一星に向けて操船することで保持され、その星が高くなりすぎて使えなくなれば、同じ方位の後続星が代用される。航海者の心象モデルはカヌーを静止させ、天空をその傍を流れさせる。陸の発見は、変化する星の配置、見えない島の周囲を回り込む波形、夜明けと夕暮れに現れる陸ねぐらの鳥たちによって計算される。マルケサスからハワイへの航海——およそ3,800キロメートル、その最後の六百キロメートルはハワイの高気圧の尾根の下、諸島上に特徴的な雲形が現れる海域——は熟達者によって確実に行うことができた。
1975年、ポリネシア航海協会が双胴カヌーのホクレアによって伝統を再発進させたとき、途切れない伝統を留めるハワイ人は一人もいなかった。マウ・ピアイルッグはサタワル島から招かれ、タヒチへの処女航海を導いた。今日では複数の航海カヌー——ヒキアナリア、ホクアラカイ、そしてアオテアロア建造のテ・アウレレなど——が太平洋を航行する規律の現代的復興は、彼が伝えた技法に由来する。ピアイルッグは2010年の死の前に、その知識を伝えたのは自身の故郷の文化におけるその絶滅を恐れたゆえであると述べている。彼によって、現代のポリネシア航海復興は可能になった。彼が教えた体系は、本質において、三千年前にラピタの航海者が用いた体系と同じである。10
一括の積荷
ラピタが運んだのは技術だけではなかった。可搬の生計基盤の全体である。ラピタの診断的農業セットには、タロイモ、ヤム、パンノキ、バナナ、サトウキビ、コウゾ(タパ用)、いくつかの葉物が含まれた。動物のセットにはブタ、ニワトリ、ポリネシア犬が含まれた。彼らはまた、より意図せざる形で、ナンヨウネズミ(Rattus exulans)を運んだ。これはラピタおよびラピタ後の到達ごとの生態学的帰結における主要な要因となる。11
このセットは、要するに、熱帯園耕に足る降水量のあるあらゆる太平洋の島の植民を可能にした。最初のカヌーが到着した時に空白だった島は、一、二世代のうちには園耕者の自給的村落を支えうるようになった。ラピタ植民カヌーの積荷目録は、要約された移植可能な文明だったのである。
諸波
ラピタ拡散そのもの——ビスマルク諸島から遠オセアニアへの東進——は、考古学的尺度では速やかであった。ビスマルクの最古のラピタ遺跡は紀元前1500–1350年頃に位置づけられる。紀元前1100年にはラピタ土器がソロモンに、紀元前1000年にはバヌアツ、ニューカレドニア、フィジーに、紀元前950年にはトンガに、紀元前900年にはサモアに見られる。1 ビスマルクからサモアまでのラピタの弧は、およそ五世紀で踏破されたのである。
そしてのちに長い停滞が訪れた。およそ紀元前800年から紀元200年にかけて、ラピタ・オーストロネシア人の子孫は西ポリネシア(トンガ、サモア、ʻウベア、フトゥナ)に留まり、それ以上東に拡散しなかった。櫛目印文の土器の伝統は衰退して消失し、祖ポリネシア語はより広いオセアニア・オーストロネシアの基層から分化し、首長制が発達し、独自のポリネシア的文化的同一性が形成された。12
第二の波は、かつて想定されていたよりも遅く始まり、紀元第二千年紀の初期にかけて加速した。最近の放射性炭素研究——もっとも重要なのは、ウィルムスハースト、ハント、リポらによる2011年のPNAS編年と、ジャコムらによる2022年のその更新——は、東ポリネシア植民の年表を大きく圧縮した。13 紀元1000–1150年頃、マルケサスとソシエテ諸島が西ポリネシアから人口される。そこから扇状に展開して、ハワイ(初期植民は紀元1000–1100年頃)、トゥアモトゥ、クック、オーストラル諸島、マンガレヴァが続く。紀元1150–1250年頃、ポリネシア人は地球上もっとも孤立した居住地ラパ・ヌイに到達した。最後の大航海は紀元1280年頃のアオテアロアであり、これに2022年のPNAS編年は高い精度で収束している。13
紀元1300年までに、ポリネシア三角形のあらゆる居住可能な島が植民されていた。地球で最大の空白の生息地は、単一の物質文化複合体を起源とする単一の言語族によって、およそ二十八世紀——ことによると五十六世代——のうちに埋められたのである。
何が変わり、何が置き換えられたか
ラピタに由来する諸言語
ポリネシア諸語——程度の差はあるが相互理解可能な、約四十の固有名のある言語、すべて祖ポリネシア語に由来し、その祖ポリネシア語自体はオーストロネシア語族のオセアニア系統に由来する——は、今日太平洋において約二百万の人々によって話されている。[12, 14] それらのラピタ拡散との連続性は、あらゆる水準で記録されている。
祖ポリネシア語は、紀元前500–300年頃のトンガ・サモア・ʻウベア・フトゥナ地域で話された——ラピタ土器の伝統が過ぎ去ったのちのことであるが、ラピタ拡散から下った集団がいまだ西ポリネシアに留まっていた時期である。それからトンガ語とニウエ語(トンガ系統)と、核ポリネシア語が下る。核ポリネシア語からはサモア語、アウトライアーズ(メラネシアおよびミクロネシアにおけるポリネシア語飛び地)、そして東ポリネシア諸語——マルケサス語、タヒチ語、ハワイ語、マオリ語、ラパヌイ語、マンガレヴァ語、その他——が派生する。1965年にブルース・ビッグスが開始したPOLLEX語彙データベースに基づく過去二十年のベイズ系統解析の方法は、この系統樹のおおまかな形を、古い比較法のみでは到達しえなかった精度で確認している。14
ポリネシア諸語は単に子孫であるにとどまらない。それらはなお、オーストロネシア・ラピタ植民者の子の子の子の——多くの代をへた——子孫の言語である。ハワイ語話者、サモア語話者、マオリ語話者は、数時間の会話で互いの言語の同源語を識別しうる。歴史言語学の尺度によれば、その統一性は新しく、密である——時間的深度においてはロマンス諸語の統一性に比すべきだが、地理的広がりにおいてははるかに大きい。
文化的彫琢
ポリネシア人がラピタ遺産を用いて行ったのは、その彫琢である。同一の農業セット——タロ、ヤム、パンノキ、バナナ、サトウキビ、ブタ、ニワトリ、イヌ——は、ハワイの火山性高島、トゥアモトゥの環礁、アオテアロアの温帯林、そしてしだいに乾燥するラパ・ヌイという、極めて異質な生態に適応された。セットが機能しえないところでは(アオテアロアはパンノキとバナナには寒すぎ、ラパ・ヌイの樹木被覆の崩壊は多くの作物を困難にした)、ポリネシア植民者は機転を利かせた。アオテアロアでは、移入されたシダの根、現地で狩られたモアおよびアザラシと並んでクマラ(サツマイモ)が栽培され、ラパ・ヌイでは石をマルチした入念な園芸体系が劣化した土壌における生産性を維持した。
そのクマラ自体が、ポリネシアの航海がポリネシア三角形の外にすら及んでいたことの証拠である。サツマイモは南米の栽培植物であり、紀元1000–1100年頃の東ポリネシアへの伝播——ポリネシア語の同源語(kūmara、ʻumara、kuala)がケチュア=アイマラの kʼumar / kʼumara にまで遡る——は、コロンブス以前のポリネシア人による南米大陸への往来航海の最も強い証拠である。15 その航海は持続的なヨーロッパ接触に先立っており、栽培植物と借用語は共に到来し、サツマイモはコロンブスが大西洋を横断する以前に、アオテアロア、ハワイ、東ポリネシアの全域で栽培されていた。
ラピタ系の首長制基層から彫琢された政治制度もまた、地域差を呈した。ハワイは最も階層化されたポリネシア社会を発展させた——神の血統に連なる高位首長、精緻なカプー(タブー)体系、祭司階級、世襲の平民、そして大規模な祭祀施設ヘイアウの建造のための賦役がそれである。タヒチ、トンガ、サモアは儀礼的・軍事的機能を伴う格付け首長制を発達させた。マルケサスは時代によって、人口圧のもとで首長制を完全に解体し、軍閥的体制へと回帰することがあった。アオテアロアのマオリは、その航海者の祖先の熱帯島嶼生態よりも朝鮮や日本の温帯林に近い生態的設定に出会い、より冷涼で過酷な環境に、要塞化された村落「パー」を発明し、戦士中心の文化を発展させることで適応した——重要な点で、ほかのいかなるポリネシア社会とも異なる。
ネズミの伝播と森林の変容
ナンヨウネズミ(Rattus exulans)は、定住されたあらゆるポリネシアの島に、食料源として意図的に、あるいは密航者として偶然に、到達した。それは木登りに長け泳ぎもよくする小型の齧歯類だが、何よりも種子と果実、鳥の卵と雛、小さなカニのキチン質まで何でも食べる機会的な雑食者である。哺乳類の地上捕食者に対する防御を進化史で選択してこなかった島々への到達は、ラピタ後の生物学的移入のすべてのなかで、最も急速な動物相の変化を引き起こした。11
2008年のジャネット・ウィルムスハーストによる、アオテアロアのネズミに齧られた種子とネズミ骨の放射性炭素年代に関するPNAS解析は、ポリネシア人の到達を紀元1280年頃の五十年の枠の中に確定した——紀元200年ほどの早期到達という従来の推定はこの新しい編年のもとで崩れ去った。13 ポリネシア三角形の全域で、同じ手法は植民の編年を絞り込み、同じ図式を確認した。すなわちネズミは事実上、最初のカヌーとともに到達する。一世代のうちに、地上に営巣する鳥は消える。数世代のうちには、土壌が森林伐採を記録し、骨塵塚は個体群が支えきれない量で取られた鳥と亀の骨で満たされる。
基層が正典となる
ビスマルク諸島で最初の櫛目印文土器の片が焼かれてから三千年の後、それから下る文化系統は今や地球表面の四分の一と、おそらく二百万人ほどの人口を定義している。1 ポリネシアの諸言語はそれらの島々の言語である。19世紀初頭の宣教師の圧力によって多くの場所では断ち切られ、20世紀末にホクレア計画とその後継により再確立されたポリネシアの航海伝統は、なおマウ・ピアイルッグが教えた方法によって航行可能であり——いまやハワイ、アオテアロア、ラロトンガ、タヒチ、サモアにおいて積極的に再教育されている。西ポリネシア、タヒチ、ハワイの祭祀施設マラエとヘイアウ、アオテアロアの集会所ファレヌイ、サモアとトンガのタタウの入墨伝統、ラパ・ヌイのモアイ——これらすべてが、ビスマルク諸島の浜辺で百五十世代ほど前に始まったオーストロネシア・ラピタ拡散の遺産である。
伝播は連続的であった。ラピタが終わりポリネシアが始まる地点はない。言語樹も、物質文化的継起も、遺伝系統も、すべて連続している。慣習的な切断点——紀元前800年頃以降の西ポリネシアにおいて櫛目印文土器がもはや作られなくなる時点——は、二つの文化系統の不連続ではなく、単一の文化系統の内における様式的な移行である。人々は同じ人々である。船は同じ船であり、進化していく。星は同じ星である。
代価とは何だったか
ハワイの鳥類学的黙示録
ポリネシア人到達に伴うもっとも徹底的に記録された生態学的変容はハワイのものである。紀元1000–1100年頃のポリネシア人定住以前、ハワイの鳥類相は少なくとも113の固有種を擁していた——三千万年を超える隔離下での種分化の産物であり、そのなかには哺乳類の枝食動物が不在であったために、大陸において小型の草食・食虫動物が占める生態的地位を占めていた、地上性の飛べない鳥類の見事な適応放散が含まれていた。16
スミソニアンの古鳥類学者ストールズ・オルソンとヘレン・ジェイムズは、1970年代以降にハワイ諸島で発掘を進め、それまで科学に知られていなかった化石鳥類相を明らかにし、その喪失を記録した。ポリネシア人到達以前には、Apteribis 属の飛べないトキ類がいた。雁ほどの大きさの Thambetochen 属のカモ類がいた。少なくとも七種の巨大な飛べないクイナ類がいた。二種の大型の飛べないカモ類がいた。数えきれないほどの小型種——フィンチ、ミツスイ、ハワイミツスイ類の派系(drepanidines)、ツグミ類——がおり、その多くは、19世紀の博物学者によって記録されることなく、化石記録から去った。16
オルソンとジェイムズの計算によれば、その喪失は、1778年のヨーロッパ人到達以前に絶滅した固有種を少なくとも五十種に達せしめ、その損失の大半はポリネシア人の最初の数世紀の占住に集中していた。原動力は、ポリネシア人が農地用の段丘と豚の餌のために低地林を伐開したという生息地の転換、ナンヨウネズミ・イヌ・ニワトリの導入——いずれも卵と雛を食べる——、そして新たに定着した共同体にとって高熱量で容易に獲りうる食料源となったであろう、より大型で目立つ種への直接の狩猟であった。リーワード諸島の低地乾燥林——飛べない鳥類相の大半が暮らした場所——は、1778年にクック船長の艦船がカウアイ島を視認したときには大幅に変換されていた。彼と博物学者たちが記録した種は、すでにほぼ完了した四世紀にわたる絶滅事象の生残りであった。
アオテアロアのモア
アオテアロアの経験は、もしあるとすれば、いっそう凝縮されたものであった。ニュージーランド列島の二つの主島は、ポリネシア人到達の時点で九種のモア(Dinornis、Anomalopteryx、Megalapteryx などの属の大型の飛べないラチタ類)を支えていた。最大のものは立位で三メートル、体重二百三十キログラムに達した。モアは森林の支配的陸上草食動物として数千万年にわたって君臨し、哺乳類が不在のなか、それまでに存在した唯一のもう一つの大型陸上動物相は、空からモアを襲う巨大鷲のハーストワシ(Hieraaetus moorei)であった。17
アサル・アンダーソンの『驚異の鳥たち』(1989年)と、続く一世代のモア狩り遺跡の発掘が、その編年を確立した。紀元1280年頃の最初のポリネシア人到達は、集中的なモア狩猟期を開始した。およそ百五十年のうちに——ホールダウェイらが2014年の『ネイチャー・コミュニケーションズ』のモア卵殻の放射性炭素分析で1430–1450年頃と特定した期間——モアの全種が絶滅した。18 獲物としてモアに依存していたハーストワシも共に去った。それと共に、いくつかのほかの大型の飛べない、あるいは地上に営巣する鳥類——ニュージーランド・スワン、Aptornis 属の巨大なバン類、エイルズ・ハリヤー(チュウヒ)——も去った。
狩りは穏やかなものではなく、緩慢でもなかった。南島のモア解体場は単一の占住層位における切り分けされた鳥の集中を示し、下肢と上半身の骨は選別され残りは捨て置かれた。これは、モアの個体群が支えきれない密度における高級部位狙いの狩猟を示唆する。この狩りに加わった南島の人口は、ホールダウェイのモデルによれば、島全体で数千人を超えたことはなかった——だがそれだけで、モアを五世代のうちに絶滅へと導くに足りた。18
太平洋の他の絶滅
ハワイとアオテアロアの事例はとりわけ深く記録されているが、その図式は一般的である。太平洋全域にわたって、デイヴィッド・ステッドマンとその他の研究——オルソン=ジェイムズのハワイの基準に基づき、マルケサス、マンガイア、イースター島、ヘンダーソン島などにおける並行的研究を加えて——は、人類以前の生物相が記録されたことのない小島の真の固有相についての前提によって、数百から二千種にも及ぶ鳥類が、ポリネシアおよびラピタ期の到来の結果として絶滅したと推定している。19 その図式は反復される。地上営巣性および飛べない種が最初、大型種が二番目、より小型でひそやかな種が可変的に、生残った個体群は、進化史の上で行動的特徴——飛行、巣の隠蔽、捕食者回避——を、ネズミやブタや人間がたやすくは打ち破れない仕方で選択してきた系統である。
太平洋の絶滅事象は、いくつかの尺度では完新世最大の鳥類絶滅事象である。それは集中的ではなかった。それは数千の島と幾世紀にもわたる人類の移動に分散していた。しかし累積において、ラピタ=ポリネシア人による太平洋の植民は、過去一万年における鳥類相のいかなる地域的な単一生物変容よりも大きな——よりよく知られた完新世の大陸的絶滅事象のいずれよりも、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸到達がのちにより速い時間尺度で行うことになるものよりも、大きな——変容であった。
ラピタ・ヌイと森林伐採の問題
ラパ・ヌイの事例は、ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』(2005年)と、そこから派生する大衆文献の多くにおいて、自らの生態的基盤を破壊し、結果として人口的・政治的崩壊を被ったポリネシア社会の教科書的事例として——示されている。20 ダイアモンドの設定した物語は次のようなものである。ポリネシアの定住者が紀元1100年頃のラパ・ヌイに、四百年で多くて一万五千の人口を支える森林の景観のもとに到達する。森林はモアイ(巨大な石像)の制作と運搬のために伐られる。森林破壊は紀元1500年頃に完了する。土壌侵食、農業崩壊、飢餓が氏族間戦争と人口崩壊を惹き起こす。1722年にオランダ人が島を初めて視認したとき、人口は二、三千ほどに落ちこんでいる。

修正主義の立場——テリー・ハントとカール・リポによる『歩いた像たち』(2011年)と一連の続く論文で最も広く展開された——はその軌道をほぼあらゆる点で論駁する。21 ハントとリポは次のように論じる。森林破壊の原因はモアイ建造ではなく主としてナンヨウネズミであり、それがヤシの種子を食べて森林の再生を妨げた。ラパ・ヌイの1722年以前の人口はダイアモンドの物語が想定するよりはるかに小規模であった。モアイ建造は森林破壊を駆動するのではなく、むしろそれの後も長く続いた。ラパ・ヌイの破滅的人口崩壊はヨーロッパ接触の後に生じ、その駆動力は、移入された疾患、生残りのおよそ半数を拉致あるいは殺害した1862–63年のペルー奴隷狩り、そしてそれに続く植民地時代の収奪であった。
現在の学界の立場は流動的である。ハント=リポの修正主義は学界を動かした。ダイアモンドの綜合はもはや合意ではない。しかし接触前の森林伐採の一般的事実は争われていない——問題は何がそれを駆動し、その人口的帰結が何であったかである。ラパ・ヌイへのポリネシア人到達の代価は、森林破壊、固有のヤシ(Paschalococos disperta)の喪失、そして本島からのあらゆる営巣海鳥種の駆逐を含む。それが、ヨーロッパ接触ののちに与えられたカタストロフとは別個に、ダイアモンド型のエコサイダル崩壊を含むかどうかは、学界の問いである。今のところの誠実な読みは、ラパ・ヌイの接触前の生態学的変容は実質的であり、その接触前の人的代価は実在したが従来の綜合が主張したよりは小さく、ヨーロッパ人が1722年に見出した人口的カタストロフの大部分はいまだ生じていなかった——ヨーロッパ人が見出したカタストロフは、彼ら自身がまさに与えようとしていたものであった——というものである。
島嶼間および島嶼内の暴力
後期民族誌と口頭伝承から得られるポリネシア植民の像は、平和な村落生活のものではない。トンガの王朝は西ポリネシアにおいて何世紀にもわたって海軍力を投射し、トゥʻイトンガの海上覇権はʻウベア、フトゥナ、サモアの一部にまで一時その手を伸ばした。ヨーロッパ接触以前の幾世紀にわたるタヒチおよびハワイの首長制間戦争は、要塞化された陣地、大規模な合戦、儀礼化された人身犠牲を伴った。アオテアロアのマオリは少なくとも紀元1500年以降、要塞化された村落「パー」を数千築き、17・18世紀のヨーロッパ接触以前の大マオリ部族間戦争は、十分に数えられたことはないものの、その期間にわたって犠牲者と離散者の総数は数万にのぼると一般に見積もられている。
これらの代価はポリネシア人によって他のポリネシア人に対して支払われたものである。それらはラピタ=ポリネシアの伝播の第三者への代価ではない——第三者など存在しなかったからである——が、それらは、空白の生息地を埋めるなかでポリネシア社会自身が生み出した制度と人口圧の代価である。ラピタとその後継たちは、植民において、人類がそれまで一度も行ったことのなかったことを行っていたのである。彼らは、人類がいまだ足を踏み入れたことのないがゆえに所有者なき土地を取った。代価は、カヌー到来以前にそこに住んでいた種によって支払われた——モア、ハワイの飛べないクイナとカモ、巨大バン類、太平洋中央の海鳥のコロニー、ラパ・ヌイの固有のヤシ、リーワードの各群島の低地乾燥林。これらの種は、いかなる人間制度もいまだ認めることを学んでいなかった請求権を有していた。代価はそれらに対して引き当てられ、不可逆的に島々の元帳に記入された。
残ったものと残らなかったもの
残ったもの——深い森林の固有種、ひそやかな種、高地の避難所。残らなかったもの——大型動物相、地上性の飛べない種、アクセスしやすい海岸の島々の海鳥コロニー、低地の乾燥林。その図式は、深い時間における空白の生息地への人類の植民すべての図式であるが、太平洋ではいかなる地球規模の事例よりも短い間隔ともっとも明瞭な記録に圧縮されている。オーリニャック期のヨーロッパは、そのマンモスのステップを失うのに四万年を要した。後期更新世の北アメリカは、そのナマケモノとマンモスの大型動物相を失うのに二千年を要した。アオテアロアは百五十年でモアを失った。ハワイは紀元1000年以降の四世紀のうちに、三千万年にわたって進化してきた固有鳥類系統の三分の一から半分を失った。
ラピタとその後継たちは、太平洋に居住される文明を与えた。彼らはその代価を、鳥類において、森林において、土壌において、霊長類もネズミも一度も出会ったことのない生態系において支払った。代価は、その名を植民者たちが学ぶ機会を多くの場合得られなかった生命体——なぜなら言語学者あるいは博物学者がそこに記録するために到達したときには、そこにあったものはすでに去っていたから——によって支払われた。
伝播は今日もある——三千年前のビスマルク諸島の橋頭堡から直接の文化的・人口的血統で連なる、地球の四分の一に広がるポリネシア世界、人類の記録における最大の単一の持続的な海洋を跨ぐ文化圏である。代価もまた、そこにある。
その後に起きたこと
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-1400最古の櫛目印文ラピタ土器がビスマルク諸島で焼成される、紀元前1500–1350年頃——オーストロネシア植民の波の診断的土器層位が始まる。
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-1050ラピタがバヌアツ、ニューカレドニア、フィジーに到達、紀元前1100–1000年頃——遠オセアニアのそれまで無人だった群島に最初の人類が足を踏み入れる。
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-900ラピタがトンガ、サモアに到達、紀元前950–900年頃——第一次ラピタ拡散の波の東方終端、西ポリネシアの故郷が形成される。
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-400祖ポリネシア語がオセアニア・オーストロネシアの基層から分化、紀元前500–300年頃——現代ポリネシア四十諸語の言語的祖先がトンガ・サモア地域で形成される。
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1100マルケサスとソシエテ諸島が西ポリネシアから人口される、紀元1000–1150年頃——千年の停滞ののち東ポリネシアの拡散が始まる。
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1050ハワイが植民される、紀元1000–1100年頃——マルケサスから外洋3,800キロメートルを越え、ポリネシア三角形の北端が拓かれる。
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1200ラパ・ヌイが植民される、紀元1150–1250年頃——東ポリネシアからのポリネシア航海者によって地球上もっとも孤立した居住地に到達。
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1280アオテアロア/ニュージーランドが植民される、紀元1280年頃——ポリネシア三角形の南西端が定住される。最後の主要なポリネシア人到来であり、ネズミ骨と齧られた種子の放射性炭素により五十年の枠内に確定。
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1440アオテアロアのモアが絶滅まで狩られる、紀元1430–1450年頃——人類到来からおよそ150年のうちに九種の大型の飛べないラチタ類が一掃される。それを餌としていたハーストワシも共に去る。
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1976ホクレア進水、1975年、そして1976年に器具によらない伝統的航法によりハワイからタヒチへ航海——現代ポリネシア航海復興の幕開け、サタワルのマウ・ピアイルッグによる航海。
今日それが息づく場所
参考文献
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